床板が軋んで、朝海が帰ってきたのが分かった。
ほっとするあまり溜め息をつきかけるのをこらえて、「どこ行ってたんだよ」と言った。
「どこだっていいでしょ。」
よくねーから聞いてんだろ。わかんない女だな。
喧嘩したばかりだから文句は垂れない。どさっと荷物を置いた音がした。
見ないでも分かる。あれは赤い鰐皮のバッグだ。
この前あいつが腕を組んで歩いてた、薄汚いハゲオヤジに買ってもらったやつだ。
黒いシャネルは、この前俺がぶっ壊したから。
「それよりあんた、仕事はどうしたのよ。」
「うるせーよ。」
なんでそういう言い方ばっかなのお?
ヒステリックな朝海の声に安心してるのはなんでだろう。今日は怒る気になれない。
昨日朝海を殴ったから、怒りパワーが足りてないんだ。
「なあ」
「なによ」
朝海の声がキンキンしなくなる。ほんの少し緊張した、この声が一番可愛い。
俺は重い腰を上げて、朝海に近寄った。
あとちょっとで抱き寄せられるって距離。
この時間だけ俺たちは世界で二人っきりだ。
一歩踏み出して肩に手を置いたら、朝海の肩の丸みをすぐ思い出した。
『ごめんって言え』
頭の中でいつも声がする。
きっと朝海の頭の中でも誰かが同じ事を言ってる。
だけど俺たちはいつもその一言が言えない。だからいつまでもくっついてる。
朝海が俺の胸に小さい頭を当てた。
茶色い髪が俺の首らへんに当たって、くすぐったい。
何にも言わないで俺の背中に手を回す。俺も朝海を抱きしめる。
俺たちはこうやって足りないものを埋めてる。
「勇二」
「何だよ」
Tシャツ越しにかかる朝海の息が熱い。
「明日、どっか行こうよ。」
「ああ。」
2006/11/29